鯛の歴史 Part1

愛媛にある縄文時代の遺跡では、明浜(現西予市)田之浜から鹿骨の釣り針、御荘(現愛南町)平城貝塚の鹿の角でつくられたヤスなどが出土しています。

平城貝塚からは、さまざまな魚の骨の中にマダイの骨も含まれていました。これらには、焼いたり、煮たりした形跡が残されており、生食、焼き物、煮物として食べられたようです。つまり、縄文人も現在の私たちと同じ調理をしていたようです。

平安時代の『延喜式』には、和泉、伊勢、志摩、三河、若狭、丹後、紀伊、讃岐、筑前、肥後から朝廷への貢ぎ物として鯛が記されています。このうち、鮮魚を奉じたのは和泉だけで、他の地方の鯛は加工されたものでした。加工品には楚割(すはやり=背開きの塩干)、きたい(=丸干)、干鯛、脯(ほしし=薄く裂いた乾肉)、甘塩(=一夜干)、塩作(=塩干)、春酢(=なれずし)、醤(=塩辛)などがありました。交通網が整備されていないので、地方からの鯛は腐ってしまうため、加工が施されていました。

出典:えひめ愛フード推進機構ホームページ